interview

2022.01.09 掲載

山本公成/即興演奏家、作曲家、プロデューサー

山本さんは世界を舞台に数多くのアーティストと即興演奏のセッションを重ねる演奏家。多数のプロジェクトに参加して全国各地で演奏するほか、映画、舞台、演劇の音楽の作曲・プロデュースも手掛けるなど、音楽を通してさまざまなシーンで活躍中です。今から50年ほど前、東京で音楽活動を始めたころのお話や、音楽を通した「出会い」について、山本さんにうかがいました。

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「音楽をやる」ことが、今より大変だった時代に
山本さんはお父さんの影響で、小さなころから音楽に親しんできました。「父は満州に農業指導者として渡航、大戦末期にソ連の捕虜としてシベリアに勾留され、命からがら引きあげてきた。そんな時代でしたが、5軒長屋の貧乏暮らしながらピアノを習わせてもらい、家ではオルガンを弾いていた」。ピアノの先生がフランスに留学してしまって習い事はやめたものの、その後も一人でハーモニカを吹くなど音楽に親しみ、高校ではブラスバンド部に入部。部の楽器を借りてフルートを担当し「マーチに飽きて、つい譜面をアレンジして吹いていた」という山本さんは、趣向が合う友人と、部活動とは別にスイングジャズのバンド演奏にも取り組みました。
 
その後、進学で上京。しかし当時は学園紛争のため「学生らしいことは何も表現できないでいた」といいます。そんななかでも「軽音学部に入部し、先輩が導いてくれて大学のバリケードの中でコンサートを開けたおかげで、音楽がお金になることを体験」できたり、キャバレーのビッグバンドで、「決して音は出すなと言われ、立って動きを揃えているだけの、枯れ木も山の賑わい」のアルバイトをしたりしながら、音楽を続けることができました。
 
その後、池袋や大宮のキャバレーでの演奏(ちゃんと音を出しての演奏)のアルバイトを経て、六本木のクラブでボサノバを演奏していたころは、月30万円も稼いでいたといいます。当時、大学卒初任給は3万円ほど。「でもその金額は虚妄の世界でした。これではいかんと言わんばかりに、ある日の演奏はアップテンポのリズムで始まった」といいます。誰が始めたかはわからないけれど、みんな夢中で演奏し、気がついたら「1曲で45分というメチャクチャなステージ。その日に見事クビになりました(笑)」。
 

即興音楽への扉の鍵を開けた出会い
六本木のクラブをクビになってからは、楽器を持って有名ライブハウスに「道場荒らしのように演奏中のバンドに乱入する」日々。それでも「満足することはなく、まるで野良犬のようにさまよい歩いていた」という山本さん。ある大雪の日、新宿ピット・インの2階にあったライブハウス「ニュージャズホール」からベースソロの音が聴こえ、山本さんは吸い込まれるように店に入りました。「魂の叫びの音だった」といいます。演奏していたのは、ベーシスト吉沢元治さん。出会ったその日に「そんなに好きなら明日からただで聴けるようにしてやるから、楽器を運べ」と吉沢さんから言われて、山本さんの音楽三昧のボーヤ生活が始まります。
 
「東中野の吉沢さんのアパートで、当時非常に珍しかったAKAIのオープンリールのテープレコーダーを使い、紙を擦る音や缶を叩く音を録音して、テープを裏返したり半速にして再生する、今でいうミュージック・コンクレートをしたり、現代音楽やアフリカ大陸の民族音楽、邦楽など、ジャズに限定しない幅広いレコードを聴かせてもらったりした。吉沢さんは、自由な世界が広がっていることを遊びながら伝えてくれた」と山本さんは振り返ります。「ボーヤ生活の経験はとても貴重で、今の僕がある原点かもしれない。吉沢さんは山下洋輔氏などとも演奏する一流のアーティスト。その彼が野良犬の自分と、何のへだてもなく真剣に遊んでくれた。即興演奏の道を具体的に示し、即興音楽への扉の鍵を開けてくれた人です」
 
「肉体は制限でしかない」即興演奏の奥深さ
音楽三昧の生活を送るなかで、山本さんはストイックに楽器練習をしてきました。とくに学生時代は「弱点である小指をよく使うよう、そこにめがけて」過酷な練習を重ね、筋が痛み、やがて腕がパンパンに腫れ上がったほどです。ドクターストップがかかってもやめず、「眠るときは痛む肩や腕を自分で揉み、揉んでいるうちに、いつの間にか寝ていた」。そこまで練習しても、「楽器は自由にならない、肉体は制限でしかない」と山本さんはいいます。
 
吉沢元治さんと、初めて即興演奏で共演したときのこと。山本さんは「大師匠と一緒のステージに立っているだけで泣きそうだった。自分は下手くそだし、指もとろい。何もできない」。そんなふうに感じて、体が固まってしまったといいます。「何も出てけぇへん」。お客さんもいるなかでの極限状態で「今、自分にできるのはこれくらいだ!」と山本さんは楽器を置いて這いつくばり、なんと床を叩くパフォーマンスをしたそうです。「もうあほちゃうか、というぐらい叩いた」
 
即興演奏にのぞむときは「自分自身に問い掛ければ、たとえ床を叩くことしかできなくても、何か答えは見つかる。自分に聞くことが大事」と山本さんはいいます。「今でも楽器は自由にならないから練習するんです。こうしたらマシかも、もっと楽に吹けるのではと考えて、気がついたら練習しています」
 

これからも出会いを大切に、「耳」と「心」を開いて
これまで招待を受けて世界各地で演奏してきた山本さん。海外への演奏の旅は「友達に会ってセッションをしに行く感覚」といいます。どうすれば世界各地にお友達ができるのでしょうか?「それはわかりませんね(笑)。気づいたら出会っていて、出会いがまた次の出会いをつなぐ。その繰り返しです」
 
出会うのは、人だけではありません。バルト三国を訪れた際に、独立戦争下のリトアニアで、200万人の民衆が武器を持たず、歌うことで独立運動に参加したという史実と出会い、山本さんは大きく心を揺さぶられました。さらにその旅行中、「カンクレス(10弦の弦楽器)」、「フレーテ(木の笛)」という民族楽器とも出会います。帰国後、メロディがおりてきて曲ができ、「ふるさと」と名付けました。そんな出来事が重なって、民族楽器を用いて演奏するユニット「月ゆめ」の活動がスタート。アルバム「月ゆめ」発表後は、野外フェスティバルやお寺、ギャラリーなどさまざまな場所で演奏活動を続けています。
 
「『出会い』は、意図してできないもの。ただ、耳と心をできるだけオープンにしておくことは大事だと思う。なるべくそうしていたいと思っています」と山本さん。「心」だけでなく「耳」をオープンにする、という表現がとても演奏家らしくて重みがあり、「私もそうします」とつい子どものように返事をしてしまいました。
 
取材・文/かわださやか(取材当時2021年12月)

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山本公成(やまもとこうせい)

ソプラノサックスを中心に、世界各地の笛を演奏する即興演奏家、作曲家、プロデューサー。1968年のデビュー以来、即興音楽のパイオニア的存在として幅広いジャンルで活躍。これまでジョン・ゾーン、ワダダ・レオ・スミス、吉沢元治、坂田明、吉田簑太郎(文楽)、横尾忠則(アートパワー展)、細野晴臣(アートパワー展)、R.C ナカイ(ナバホ族)、キドラット・タヒミック(映画監督)、エドガー・バナサン(フィリピン カリンガ族)、ジョセフ・ンコシ(南アフリカ) など、ジャンルを問わない多彩なアーティストと共演。また「Symbiosis」「TASMANIA」「風の楽団」「月ゆめ」など数多くのプロジェクトに携わり、全国各地で演奏活動を行う。

1999年に立ち上げた自身のレーベル「Pulse’jet Label」から「Earth Breeze」「月ゆめ」など7枚のアルバムをリリース。また、ドイツのレーベル「IC/digit music」から「EAST WARD」「Tears of the Forest」など4枚のソロアルバムを世界リリース。

園子温監督「部屋 THE ROOM」、本田孝義監督「船、山にのぼる」など映画音楽のほか、舞台、演劇の音楽を多数作曲・プロデュース。2005年からロハスサイクル実行委員会の代表を務め、自転車をこいで得た電力だけを使用する「アースデイ・自転車発電ライブ」を行うなど、音楽を通して多方面で活躍中。

山本公成ホームページ
https://www.yamamoto-kosei.com/
https://www.yamamoto-kosei.com/

Pulse’jet Labelレーベルホームページ
http://www.pulsejet.jp/index.html
http://www.pulsejet.jp/index.html